牧野富太郎の生い立ちと功績・ゆかりの土地をご紹介

牧野富太郎(まきのとみたろう)は明治時代から昭和時代まで、一生を植物の研究に生きました。

自らの足で各地を歩き、植物を採集して学名をつけ、植物図鑑などにまとめています。

その富太郎の生涯をモデルにしたドラマが2023年4月から始まります。
NHK朝の連続テレビ小説(朝ドラ)『らんまん』です。

今回は牧野富太郎の生い立ちと功績についてご紹介します。
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牧野富太郎の生家

牧野富太郎は文久2(1862)年、現在の高知県佐川町に生まれました。
そのころはまだ土佐国高岡郡佐川村と呼んでいました。

代々続く商家で、比較的裕福な家柄でした。
そのため、武士の家ではないものの苗字と帯刀が許されていたと言います。

しかし、幼くして両親と祖父を亡くしてしまい、その後は祖母が育てていました。

生まれた時は「誠太郎」と命名されましたが、明治維新を迎えるころ「富太郎」に改名しています。
これは本人の意思ではなく、身内の不幸続きを心配した祖母が開運を考えて行ったものです。

そのおかげか、富太郎は94歳まで長生きします。

富太郎の生家である店には番頭さんや多くの使用人がいて、繁盛していたと考えられます。

寺子屋から小学校に入るが中退

当時の子どもは寺子屋で学びますが、富太郎も寺子屋に通っていました。
その後、名教館という藩の学校に入ります。しかし、明治維新で教育改革があり名教館は小学校になり、富太郎はそのまま小学生として学ぶことになりました。

ただ、驚くことに途中で退学してしまいます。

これは実家が商家であり、特に学問がなくてもいいだろうと思ったこと
そして、野山を歩き回り、植物を観察することに没頭したからです。

さらに驚いたのは、その2年後に小学校の教師として働くことになったのです。

当時は教師不足だった上に寺子屋から名教館で勉強を続けていたので、富太郎に教師の声がかかったのでしょう。

どうしても植物の研究がしたい


富太郎は何か手に職をつけて収入を得ようという気持ちはあまり持っていないようです。

そのため、小学校教師の仕事も2年ほどで辞めてしまいました。

店は祖母や番頭さんが切り盛りしてくれるし、特にお金に困ることはない。

そのため、好きな植物採集に明け暮れる毎日を送っていました。

その気持ちが高じて東京に出かけることにしました。

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牧野富太郎ゆかりの土地


ここからは富太郎ゆかりの土地を辿ってみたいと思います。

牧野富太郎と上野

富太郎が初めて上京したのは明治14(1881)年、19歳の時でした。

上野で開催されていた「第二回内国勧業博覧会」の見学、研究のための顕微鏡の購入、書店で書籍を購入することなどが目的です。

また、小石川植物園を見学して、刺激を受けたようです。

植物研究者や大学教授、同世代の研究者など多くの人とも出会っています。

この上京中に日光にまで足を伸ばして植物採集をしています。

また、故郷に帰る際には船ではなく東海道を通り、各地で植物採集を行いました。

例えば、滋賀県の伊吹山に寄って「イブキスミレ」を採集しています。

今のように新幹線や電車があるわけではないので、徒歩や馬車、人力車などを使って移動しました。

東京大学に出入りして研究

一度は佐川村に戻った富太郎ですが、22歳になると再び上京します

帝国大学(現在の東京大学)の研究室に出入りすることを許されて、さらに研究に打ち込むようになりました。
日光や筑波山などを歩き回り、多くの植物を集めて命名、分類などをしています。

発見の数々

江戸川の近くで、珍しい食虫植物である「ムジナモ」を発見。小岩菖蒲園に記念碑が残されています。

富太郎は東京近郊だけでなく、全国各地を歩きました。

北は北海道・利尻島から南は屋久島まで

富太郎はその生涯の中で、最北は北海道の利尻島を訪れ、エゾノヨモギギクなど珍しい植物を採集しています。

また、「ボタンキンバイ」など利尻島の固有種を見つけました。

一方、屋久島ではヤクシマリンドウ、ヤクシマシオガマ、ヤクシマスミレなど珍しい植物を発見、命名しています。

新種の植物に名前を付けるのも富太郎の仕事でした。

『日本植物総覧』を一緒に書いた根本氏とその助手が発見した植物に「ネモトシャクナゲ」と命名。現在は福島県の花になっています。

仙台で見つけた笹

富太郎の妻・寿恵子は55歳という若さで亡くなっています。

生涯、富太郎の研究に理解を示し、貧しい中で多くの子どもを育て上げました。

富太郎は妻の寿恵子を偲んで仙台で発見した笹に「スエコザサ」と命名しています。

牧野富太郎の功績を知る場所

牧野富太郎の足跡や功績を知ることができる場所が各地にあります。
そのいくつかをご紹介します。

富太郎の生家跡はふるさと館に

富太郎の生家があった場所は、現在は牧野富太郎ふるさと館(牧野博士生家)になっています。

残された資料などを元に、できるだけ忠実に再現されているということです。
また、遺品や直筆の手紙、原稿等も展示されています。

  • 場所:高知県高岡郡佐川町甲1485
  • 入場料:無料
  • 営業時間:9:00~17:00(12:00~13:00お昼休み)
  • 定休日:月曜日(祝日の場合は翌日)
  • 電話番号:0889-20-9800

牧野植物園

高知県高知市五台山には高知県立牧野植物園があります。

富太郎の功績をたたえる目的で建てられましたが、1500種類もの植物があり、研究機関としても優れた施設です。

  • 場所:高知県高知市五台山4200-6
  • 入園料:一般730円(高校生以下無料)
  • 開園時間:9:00~17:00(最終入園16:30)
  • 休園日:年末年始 12/27~1/1
    メンテナンス休園 2023/5/30、10/30、11/27、2024/1/29

佐川町 牧野公園

富太郎が明治35年に東京からソメイヨシノの苗木を佐川町に送りました。
それを町の人々が育て、町内の各地に桜が咲き誇るようになりました。

戦後の一時期、荒廃しますが、再び手入れをして桜を育て、道路整備なども行い牧野公園と名付けました。

現在では誰でも自由に散策して、さまざまな植物を楽しむことができます。

また、佐川町では「まちまるごと植物園」として、多くの植物を育てるほか、富太郎ゆかりの土地を歩き、植物の観察などができる企画を実施しています。

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牧野富太郎の功績

牧野富太郎の功績は、なんと言っても多くの新種の植物を発見し分類したことにあります。

発見した新種の数は600種、命名した植物は2500種以上と言われています。

また、多くの図鑑や書籍、論文などを発表しています。

牧野富太郎とキノコ

富太郎が植物に興味を持ったのは、あるキノコに出会ったのがきっかけだそうです。

それは珍しいキノコで「オニフスベ」というもので、ハラタケ科の一種です。
直径が20㎝~50㎝と大きく、イボやこぶのようなでこぼこがあります。

こんな大きなキノコを見た富太郎はびっくりし、興味津々だったでしょうね。

まとめ

牧野富太郎の功績や足跡は本当に数多くあり、とてもこのページだけで紹介しきれないほどです。

NHKのドラマではどのように描かれるのか興味深いですね。

なお、『らんまん』は牧野富太郎をモデルにしたオリジナル脚本であり、フィクションです。
史実とは異なる面があることは理解しておきましょう。